あゝ無情
今思い返してみればつくづく大学の頃は楽しかったなあと思います。
当たり前のように友達がいて、仲のいい先輩・同期・後輩がいて、その友達とフェスやライブに行ったり、スポーツを見に行ったり、飲みに行ったり、旅行に行ったり…
僕はおかげさまで運良く恵まれていたのでたくさんの人たちと仲良くすることができました。
他人の話を聞くのは面白いし、色んな考え方や日々の過ごし方があって人の数だけ趣味嗜好哲学があるということに気づけました。
そうして楽しんだ分今ふと現状に立ち戻ってくると、とても寂しいしつまらない。依然としてお世話になっている人たちは多いんですが、以前と比べて遥かに交友を深める機会も回数も少なくなってしまいました。このまま一生会えないのはもったいないよなあ。せっかくこうして出会って音楽という共通の趣味を持っているだけに。高校までは誰も知らない自分しか知らないと思っていたものを他人と共有できて、共感できるって素晴らしいことだと思うんです。人生とはそういうものでいつまでも同じ場所で立ち止まっている訳にはいかないということは頭では分かっていても、大学生活で出会うことができた人は特に大切にするべきだなと最近感じます。
ここ3ヶ月ほどで飲みに行ったのは手帳を見返してみると僅か3回。東京に行くまでに積極的に声をかけてみよう。
映画 「ナイトクローラー」 感想
結局、人間って言うのは外面では取り繕っていても下賤な話題が大好きなんですよね。
他人のプライバシーを詮索するなんて趣味が悪いなあと思いつつもどこかで必要以上の事柄を知りたい好奇心があるわけです。事故現場に来る野次馬や人が困っているのに平気でカメラで撮影する人はどこにでもいるのです。ワイドショーでは四六時中芸能人のスキャンダルが垂れ流されていますし、心の片隅では文春砲を期待しているものなんです。
このナイトクローラーなんてまさにそういった人間の汚い面を惜しげもなく映し出した見事な作品だと思います。
主人公は定職も学歴もない盗みで生計を立てている人間ですが、ある日パパラッチの現場に遭遇します。そこから見よう見まねで小型カメラでスクープの瞬間を撮影し、徐々にテレビ局からの信頼を得て成り上がっていきます。
同業者の不幸をもスクープとして取り扱いカメラを回し続ける主人公。ある種の狂気が感じられましたが、いわゆるカリスマ的な存在の人は何かしらの狂気を持っているんだと思い知らされました。
一見地味な題材から徐々にストーリーが加速し、手に汗握る場面が繰り広げられる展開に最後まで釘付けになってしまいました。目を細めたくなる光景がかなりありましたが、それでも見たくなる人間の心理を上手く活用した作品だと思いました。
ローグワンを見たので感想を書きます
いやあ良かったです、ローグワン。
デス・スターの設計図を奪った、というあの一行からここまでストーリーが膨らむものなんですね。
正直今回の作品はライトセーバーも出てきませんし、結末も初めから想定できるものです。
しかも正史では日の当たらなかった人たちにあえてスポットを浴びせました。
それでも圧倒的なCGや憎めないドロイド、勇敢な反乱軍の戦士たちは心を打つものがありましたし、1話完結な分展開も早くて良かったです。
やっぱり自分はこういう個々が自らを犠牲にしてまでも1つの目標を達成し、希望を未来へと紡いでいくというストーリーが好きなのかもしれません。
ラストでレイア姫のシーンへと繋がっていく場面も胸を打たれましたし、改めてエピソード4 新たなる希望というタイトルがルークという新たなジェダイだけではなく、デス・スターの設計図にも込められているんだということが分かり感慨深い気持ちになりました。
と、同時に「フォースと共にあらんことを」という言葉にこれまでで最も重たい意味を感じました。
個人的にはいつもとは逆の、お馴染みのライトセーバーでの一騎打ち以外の展開もあってもいいと思っていたのでとても新鮮な気持ちで観賞することができとても満足しました。
ただ序盤は誰が誰なのか人物関係が中々掴めず戸惑った、というのは確かにありました。
そういえばR2やC3、ターキンなども登場していて少し嬉しかったです。
帰りに2900円投資して得たデストルーパー。
UFOキャッチャーのダークサイドに堕ちた瞬間だった。
映画 「サウルの息子」 感想
最近は意図せず戦争を題材にした映画を見ることが多いです。その中でも、この「サウルの息子」は忘れられない作品になりそうです。
舞台はアウシュビッツ=ビルケナウ収容所。主人公サウルは同じユダヤ人の死体の後処理をするゾンダーコマンドという仕事をしていた。(もちろんこのゾンダーコマンドも責務を終えた数週間後に殺される。)その中でサウルはガス室で発見された自分の息子を埋葬するために奔走する、というのがあらすじ。
まず、この映画は撮影方法が特殊で終始サウルをアップで映し、背後はボヤけてよく分からないという手法で撮られています。
それは余りにもおぞましい収容所での光景をあえて見せないという意味もあると思いますが、やはり同胞の後始末をするサウルの閉ざされた心理状態や見る側をサウルの視点に引き込ませリアリティを際立たせるという意味もあると思います。
ただ、ホロコーストやユダヤについての知識がないと多少分からないことがある気もしました。なぜ亡くなった息子を火葬ではなく土葬にこだわるのかというと、ユダヤ教ではきちんと埋葬すると正しい者は墓場から蘇り幸福を得られるという教えがあるからだそうですし、ラビ=聖職者、カディシュ=賛歌というのも自分の知識ではテレビのリモコンを一旦停止して調べてみないと分かりませんでした。
この映画で最も気になったは結局「サウルの息子」とは誰なのかという点です。埋葬しようとした「息子」はどうやら物語が進むにつれて本当の息子ではないということが分かってきます。ではこのタイトルはどういう意味なのか。ラストの場面では、処刑の日がそこまで迫っていたゾンダーコマンド達が反乱を起こし脱走します。その脱走の折にサウルは「息子」の遺体を持ち出しますが、川を渡る際に手放してしまいます。仲間は彼を励まし、小屋で小休止することにします。その時、ある少年がこちらを見つめているのにサウルのみが気がつきます。これはゾンダーコマンド側の立場に立つと非常に危険な状況ですが、サウルは何故か仲間に知らせるどころか作中で初めて笑顔を見せます。その後、少年は自らの自由と引き換えにドイツ兵に居場所を知らせサウルらは射殺されます。そして、少年が森の奥へ走り去っていくシーンで物語は幕を閉じます。
サウルにとって自分の命は元々拾われた命であり、「息子」が川に流れた瞬間、彼の中でそれ以上生きる意味を無くしたことも後方で足取り重く歩くシーンからも読み取れます。
それでもあの微笑みを見せたのは、「息子」の無念は果たせずとも自分の代わりに未来のある子供を助けることができた安堵感や恐ろしい歴史の代弁者として後を託すことのできた安心感から故のことだと個人的には思いました。本来は、「息子」を土葬し、将来蘇った時にその有り様を伝承してもらうことが目的だったからです。それは今こうして忌々しいホロコーストの歴史を映画を通して垣間見ることのできる私達へのメッセージというメタ的表現でもあるとすると、なんと作り込まれた美しいクライマックスなんだろうと感じました。